鷺の停車場

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鴨志田一「青春ブタ野郎はハツコイ少女の夢を見ない」を読む

電撃文庫から出ている鴨志田一作のライトノベル青春ブタ野郎」シリーズ、第7巻「青春ブタ野郎はハツコイ少女の夢を見ない」に進みました。

本作は、第6巻「青春ブタ野郎はゆめみる少女の夢を見ない」の続き、後編に当たる物語。

まずは、ネタバレしない範囲で感想を。

前巻の重たい最後を引きずって始まるシリアスな展開。しかし、その重たい現実を経た咲太の強い決意、また、麻衣の咲太への愛情と信頼、理央や朋絵の思い、そして、咲太に幸せになってほしいと願う翔子の気持ちが重なり合って、結末の救いがもたらされます。

ハッピーエンドにつなげていくために、悪い見方をすればご都合主義的に映る部分、言い換えれば、設定・展開に苦心したのだろうなと思う部分はありますが、セリフや振舞いによる咲太、麻衣、翔子などそれぞれの登場人物の思い・心情の描写は見事で、前巻にも増して涙する場面が多く、余韻が深い作品。テレビアニメで描かれた第5巻までの物語と比べても、格段に素晴らしい作品でした。

本巻を読み終えて、本巻と前巻を映画化した劇場版アニメ「青春ブタ野郎はゆめみる少女の夢を見ない」も絶対観に行こうと思って、映画の前売券を初めて買いました。

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映画は明日6/15(土)から公開ですが、今週末は行けそうにないので、観れるのは少し先になりそうです。小説とどちらがより響くかは、アニメの出来次第でしょうけど、いずれにしても、観たらボロ泣きするのだろうと思います。

第1巻から描かれる過程で出てきた思春期症候群の謎はすべて解き明かされたように思われますし、これまであった次巻に続く導火線のような描写もないので、本巻で「青春ブタ野郎」シリーズは一つの区切りのようです。巻末の案内にも「次巻より物語は新展開!」とありました。アニメの方は、おそらく明日から公開の劇場版アニメで終結することになるのでしょう。

ところで、アニメ公式サイトの劇場情報を見ると、今のところ上映予定の映画館は31館しかない模様です。当然まだ観ていないので映画そのものの評価はともかくとして、ストーリーなどの内容を考えると、もっと広がってもいい作品のように思いますが、やはりタイトルで損しているのでしょうか・・・。

 

 

以下は、各章ごとの詳しめのあらすじです。当然ながら思い切りネタバレになりますので、小説を読む/劇場版アニメを観るまでは知りたくないという方はパスしてください。

 

 

 

第一章 灰色で空っぽな風景

1.麻衣が運び込まれた深夜の病院、麻衣はは手の施しようがなく、命を落とす。麻衣の実母は、麻衣を……返して!と咲太の頬をひっぱたき、慟哭する。現実を受け入れられず、叩かれている感覚も曖昧な咲太。駆け付けたのどかも泣きじゃくり、力なく床に座り込む。
 翌日、夜が明ける前になって家に帰ってきた咲太は「ただいま」と言葉を発するが、誰もいない部屋からの返事はない。麻衣を失い、翔子の移植手術の機会もなくなってしまった虚無感から、胸に締め付けられるような痛みを感じて咲太が胸を見ると、これまであった3本の傷がきれいに消えていた。大きな翔子がいなくなったことを実感する咲太。

2.気が付くと夕方になっていた。そこに心配した佑真と理央が尋ねてくる。何度も電話したんだと言われて電話機を見ると、父親と花楓、理央、佑真、朋絵の4件の留守電が入っていた。佑真は咲太を引っ張り出し、理央は、メディアに囲まれると、しばらく両親が不在の自分の家に泊めることにする。

3.咲太は、しばらく騒がしいから祖父母の家にいるように花楓に電話した程度で、理央の家で数日をぼんやり過ごす。
 12月28日、都内で麻衣の告別式が開かれる。佑真と学校が用意したバスで参列する理央が咲太に声をかけるが、咲太は理央を見送る。理央が、お別れはちゃんとした方がいい、と言おうとしたのは分かっていたが、正しさを否定しようとする咲太の口から、やっぱり僕が死ねば良かったという思いがこぼれる。そこにたまたま付いたテレビから、麻衣の告別式の中継、そして子役時代から今までの麻衣の出演作やインタビューなどの回想映像が流れる。それを見て、初めて涙を流す咲太。
 悲しみの感情を拒絶することで麻衣の死を拒絶しようとする咲太は、悲しみから逃れようと玄関を飛び出して全力で走り、思い出の詰まった七里ヶ浜の海にやってくる。麻衣さんを助けてくれ!と海に向かって叫ぶ咲太のもとに、大きな翔子さんが現れる。私の中には麻衣の心臓があると語る翔子は、麻衣を助けに、過去に行きましょう、だいじょうぶです、私にまかせてください、と咲太を促し、ついてきてください、と歩き出す。

4.目を離すと翔子がいなくなってしまうような気がしてその後ろを歩く咲太に、わたしがここにいることを確かめてください、と両手を広げる翔子。咲太が自然に抱き締めると、翔子は無言の驚きを返す。冗談がわからないなんて全然咲太君らしくない、咲太君はこれから大好きな人に会いに行くんです、大好きな人を幸せにしに行くんです、冗談も通じないような咲太君で、麻衣さんを幸せにできるんですか?と言われ、咲太はハッとする。
 着いたのは学校の保健室だった。今2人がいるのは「未来」だと言う翔子。咲太は運命を決める12月24日が永遠に来なければいいと思ったあの時に、思春期症候群を発症していたのだと思い至る。翔子は、「現在」に戻るためには、今見えているものが「今」だと信じる常識的な思考を切り離さなければならない、人が常識を捨てられるのは夢の中だけ、と語り、麻衣を助けたら翔子の未来は閉ざされてしまうのではと躊躇する咲太の頬をつねる。その左手薬指には指輪があった。それに気付いた咲太に念願の学生結婚をしてしまいましたと微笑む翔子は、大好きな人には幸せになってほしい、私は咲太君が幸せになるまで、どんな未来からでも、何度だって助けに来る、だからもう諦めて幸せになってください、と話す。
 その言葉に決意した咲太は、僕は麻衣さんを幸せにする、だから、翔子さんに言わないといけないことがある、と話し始める。僕は翔子さんに生きていてほしい…手術が受けられたらいいって心の底から思ってる…祈ってる…願ってる。でも僕は医者じゃない…特別な力があるわけでもない…麻衣さんひとりを幸せにするのでいっぱいなんだ…そのひとつもちゃんとできなかった。だから、僕は翔子さんに何もしてあげられない、と。咲太君はそれでいいんですよ、といつもの笑顔を浮かべる翔子の完璧な笑顔を、涙の川が濡らしていく。もう決めたはずなのに…咲太君に言われて体がびっくりしちゃったみたい、と言い訳を口にし、だいじょうぶですから、と何度も繰り返す翔子。
 咲太のために強がってくれる翔子が落ち着くのを見守った咲太は、一個だけ言わせてください、と口を開く。未来に戻ったら、未来の僕に言っといてほしい、『かわいいお嫁さんを、世界一幸せにしろ』って、と。一瞬、驚きで目を見開く翔子。咲太が思ったとおり、ここにいる翔子は、牧之原翔子ではなく、梓川翔子なのだ。「…はい。必ず」とやさしく微笑む翔子の目からは大粒の涙がぼたぼたと落ちる。
 そして、咲太は保健室のベッドで眠りに落ちる。遠のいていく意識の中で、まずは咲太君を見つけてくれる人を探してください、と翔子の声が聞こえた。

第二章 あの日の雪がやむ前に

1.目を開けると、12月24日の午後、咲太が翔子ちゃんの病院に行っていた時間だった。しかし、保健室の先生や保健室に入ってきた佑真も、咲太の存在に気付かない。物理実験室の理央を訪ねても、やはり気付いてもらえないが、黒板などの様子から、理央が寝る間も惜しんで咲太と翔子を同時に救う方法を考え続けてくれていたことを知る。

2.咲太は自分を見つけてくれる人を探すため、たまたま校内で見つけたウサギの着ぐるみを着て学校を出る。藤沢駅に着いて大声を出しても、誰も気付かない。一度家に帰ると、翔子は自分がいた痕跡を綺麗に消して既に出ていっていた。飼い猫のなすのも自分に気付かないことを知って、咲太が人の多い藤沢駅前に戻る。
 午後2時半を回り、人通りは多い駅前だが、30分以上経っても気付く人は誰もいない。このまま事故が起きる6時になってしまうかもしれないという不安が膨らみ、力が入らず座り込む咲太。そこに、「先輩、なにやってんの?」と朋絵が声を掛ける。朋絵に引っ張り起こしてもらい、自分の感覚が取り戻せた喜びを感じる咲太は、「古賀、付き合ってくれ」と告げる。

3.駅からバスに乗った2人。朋絵は、昨日、先輩が駅でまわりに声を掛けても相手にしてもらえず泣き叫ぶ夢を見て、なんか気になって駅に来たと話す。
 病院近くのバス停で下りた2人、咲太は朋絵に、もうひとつの僕に会ってきてくれ、と頼む。10分後、咲太は公衆電話から朋絵のスマホに電話して、もう1人の自分に代わってもらう。これから起こることを話し、待ち合わせ場所には行くな、と説得しようとするが、自分を犠牲にしても翔子を助けようとするもう1人の咲太は聞く耳を持たない。朋絵は咲太の思春期症候群を心配するが、咲太に時間がないことを察して、別れる。
 咲太はのどかに電話し、テレビ局にいる麻衣に会いに行きたいと頼む。のどかは4時に新橋駅で会う約束をする。

4.咲太は東海道線に乗り、新橋駅でのどかに会うと、のどかは麻衣のマネージャーの涼子に連絡をとって迎えに来てもらっていた。その車でテレビ局に入った咲太は、着ぐるみ姿で涼子とのどかに連れられて麻衣の楽屋に向かう。のどかは私からのクリスマスプレゼント、と言って咲太を楽屋に入れる。麻衣が生きている喜びに咽び泣き、着ぐるみを脱ぐことができない咲太に、麻衣は、黙って座ってるために未来から来たわけじゃないでしょ、と着ぐるみの頭部を脱がせてくれる。
 麻衣は咲太の頭をやさしく胸に抱き寄せ、「よかった…私はちゃんと咲太を守れたんだ」と言う。麻衣はもう知っているんだと理解する咲太。「ごめんね…咲太をひとりにして…」。麻衣の言葉に、言葉が続かず涙が溢れ出る咲太。
 しかし、麻衣は、私が行かないと、咲太が死んじゃうのよ!と江ノ島の待ち合わせ場所に向かおうとする。麻衣を引き寄せて背中から抱き締め、麻衣さんはここにいてください…お願いだから、もう麻衣さんがいなくなるのは嫌、僕のことは、僕がどうにかするから、と止めようとする。麻衣の、咲太はそれでいいの?との問に、決めたんです、だから、麻衣さんは待っててください、どうせぼろぼろに泣いて帰ってくるんで…麻衣さんが僕を支えてください…そうしたら、僕が麻衣さんを幸せにするから、と話す咲太。麻衣は、わかった、でもひとつだけ間違えてる、私は咲太に幸せにしてもらわなくていい…ふたりで幸せになるの、私と咲太のふたりで…咲太のこと、待ってる、だから、ちゃんと帰ってくるのよ、と答える。そして、「いってらっしゃい、咲太」、「いってきます、麻衣さん」と2人は別れる。

5.楽屋を出た咲太は、マネージャーの車で新橋駅まで送ってもらう。藤沢駅に戻ると、事故まであと30分。咲太は翔子との待ち合わせ場所に向かう。
 しばらくして、翔子がやってくる。ここにいるのは未来の咲太、未来から来なければならない理由があったのだと悟った翔子は、わたしは失敗したんですね、と語る。咲太はゆっくりと首を横に振って、翔子さんのおかげで僕がいるんですよ、と否定する。翔子のように誰かを支えられる人間になりたいと思って生きてきた、大事なことはいつも翔子が教えてくれた、その気持ちを言葉にしようとする咲太だが、言葉が続かない。
 そんな咲太を見て翔子は微笑み、咲太と手をつなぐ。その手からは言葉で語る以上の想いが伝わってくる。咲太は、翔子さんと過ごした時間も、翔子さんがくれたものも全部…牧之原さんのがんばりも、その記憶も全部さ…ひとつ残らず僕が未来に持っていく、ともう一度声をかける。翔子は、小さく首を横に振って、忘れたいこともあるから、人は忘れることができるんだと思う、辛い記憶が永遠に続くなんて、それ以上に辛いことはない、と否定するが、咲太は、なら、翔子さんを忘れる理由がない、翔子さんは甘酸っぱい初恋の思い出なんですよ、と答える。ひねくれてるなあ、と言って笑顔を見せる翔子。
 事故の時間が近付き、咲太は、翔子の目を真っ直ぐに見て「さよなら、翔子さん」と告げる。翔子の瞳は一瞬寂しげに揺れたが「ばいばい、咲太君」と小さく手を振り、咲太は事故現場に向かう。
 咲太が着ぐるみの頭をかぶって息を潜めていると、「現在の咲太」が走ってくる。そこに、黒のミニバンが急ブレーキでタイヤを滑らせ、「現在の咲太」に接近してくる。「咲太君!」と叫ぶ翔子。「現在の咲太」の体が硬直するが、その横顔はどこか晴れやかにも思えた。「未来の咲太」もその心情がよくわかる。しかし、麻衣と幸せになるため、迫る車の前で立ち尽くす「現在の咲太」を横から突き飛ばす。

6.気が付くと、咲太の意識はひとつに戻っていた。ふたりの咲太の輪郭線が曖昧になっていくのを感じる。
 咲太は事故現場を離れて歩き出す。大きな翔子はもういない。翔子の未来を咲太の手で閉ざしたのだ。思い通りの結末を迎えたのに、何の達成感も喜びも感じず、ただただ胸に苦しみを感じる咲太は、その苦痛から逃れようと歩き、江ノ島のイルミネーションに向かう。そこに翔子がいないことをこの目で確かめた咲太は、家路につく。
 帰り道の記憶は曖昧だったが、自宅のマンションが見えてくると、その前の道路に人影を見つける。それが麻衣であることに気付いた咲太は立ち止まる。目が合った麻衣も安心したように目が潤むが、じっと見つめて、咲太の帰りを待つ。咲太は、溢れ出る涙を拭うこともせず、一歩ずつ麻衣のもとへ帰っていく。最後の一歩を踏み下ろした咲太は、涙を拭いてから頭を上げ、今できる精一杯の笑顔で「ただいま、麻衣さん」と告げると、麻衣はゆっくりと微笑み「おかえりなさい、咲太」とやさしい声で出迎える。

第三章 初恋少女の夢を見ない

1.翌日、前日撮影で学校を休んだため成績表をもらいに行く麻衣と一緒に、咲太は学校に向かう。積もる白い雪を見て、儚く消えてしまった翔子さんを思い出す咲太。電車から見る海の景色は、いつも以上に綺麗に思えた。それは生きることを選んだから。当たり前が当たり前ではないことを知って、感じ方が変わったのだ。職員室に向かう麻衣を待つ間に、物理実験室に行くと、咲太を見た理央は、二度と会えないんだと思ってた…梓川は自分を犠牲にすると思ってたから…と大粒の涙を流す。咲太は理央に、これまでの出来事をありのまま話す。理央は、梓川が生きてて本当によかったと思ってる、と思いを伝える。そこに、用事を終えた麻衣が校庭に出てきて、雪だるまを作り出す。それを見た咲太も、校庭に飛び出すのだった。

2.理央や佑真にも手伝ってもらって雪だるまを作った麻衣と咲太。藤沢駅に戻った2人は、盲導犬育成の募金をしているのに通りかかり、お金を入れる。純粋な善意ではなく、翔子の未来を選べなかった後ろめたさがそうさせたのだと咲太は思う。今までは他人事でいられたけど、困っている人、助けを必要としている人は、未来の自分かもしれないということを、翔子との出会いを通じて学んだのだ。
 2人は翔子の見舞いに病院に行く。無人の病室に残された『将来スケジュール』のプリントを見ると、以前書かれていた中学卒業から後の予定が消しゴムで消されていた。翔子の未来が消されたようにしか見えず、胸を詰まらせる咲太。泣きそうになる咲太は自販機で飲み物を買いに病室を出るが、ありふれた日常に幸せを感じて涙を流す。

3.2人がスーパーで買い物して咲太の家に帰ってくると、花楓と送ってきた父親がいた。父親に麻衣を紹介する咲太。帰る父親を玄関まで見送ると、父親は麻衣に、母親と花楓のために今の生活を受け入れてくれた咲太は思い遣りがわかる子に育ってくれたと思う反面、咲太に押し付けたことの大きさも自覚している、これからも咲太の側にいてやってほしい、と話すのだった。
 咲太が部屋に戻ると、花楓は、明日から学校に行く練習に付き合ってほしいと咲太にお願いする。

4.翌日から、咲太は花楓の学校に行く練習に付き合う。3日目には学校の敷地を囲むフェンスが見えるところまで行けるようになる。
 12月30日、咲太はバイト先で24日以来初めて朋絵と顔を合わせる。咲太は、どっちの咲太かと聞かれて、どっちも、合体した、と答え、ちょっとくらい先輩の力になりたかった、とふてくされる朋絵に、古賀が気づいてないだけで、今回のMVPはお前だ、すげえ感謝してる、と語る。バイトから帰り、麻衣、花楓と夕食を囲む咲太だったが、この日は、のどかも心配そうに付いてきていた。今朝、麻衣が交通事故に遭う夢を見たのだという。他愛のない会話を交わしたりする今まで通りの生活を、一日一日を確かめるように、なるべく自然体で過ごす咲太だったが、突然襲い掛かってくる涙の衝動とも寄り添うように過ごしていた。ふとした切っ掛けで、生きていることへの感謝に気付き、翔子への罪悪感に苛まれる、自らを揺さぶる自分の感情に翻弄されていた。
 そして、12月31日の朝、突然、翔子の母親から電話が掛かってきて、泣き崩れながら、翔子はもう長くないので会ってほしい、と訴える。咲太は、理央に電話してそれを伝えた後、翔子を助けられる方法がひとつだけあるんだろう?今自分たちがいるのは『未来』だ、『現在』の小学4年生の翔子を救えれば、『今』の中学1年生の翔子を救えるのではないか、と問い詰めるが、理央は、それは咲太の願望だ、3年という時間を戻しても、病気を治す手段がない、と告げ、仮に、奇跡が起きて、翔子が病気を克服したとすると、大きな翔子さんは存在しないことになるから、2年前に咲太は翔子に出会わず、今の高校を目指すことになって、理央や佑真にも出会わず、麻衣ともめぐり合わない人生を歩むことになる、それでもいいのか?と問い掛ける。いいわけない、麻衣さんと出会わない人生なんて人生じゃない、双葉や国見と出会わない高校生活も嫌だ、だから、この可能性に気付きながら、気付いていないふりをして数日間過ごしてきた、でもダメだ、やっぱりそういう他人任せってのは、上手くいきっこない、まだどうにかできるかもしれないと思うと、気付かなかったふりをするのはしんどいんだ、と咲太は本心を明かすのだった。

5.理央との電話の後、咲太は麻衣に電話を掛け、翔子の容体について連絡があったことを告げる。病院方面に向かうバスに乗る2人。咲太は麻衣に、やっぱり僕は牧之原さんを助けたい、と切り出す。麻衣は、戸惑う様子もなく静かに、うん、咲太がそうしたいならいいよ、と答え、『将来スケジュール』のプリントを書いたり消したりしているのは思春期症候群を起こしている小学4年生の翔子ちゃんなんでしょ?だから、過去を変えていいよ、咲太、毎日ひとりになると泣いてるし、と語り、咲太の手に自分の手を重ねる。麻衣はすべてを悟っていたのだ。どうにかできたかもしれないって思いながら生きていくのは辛いもの、ふたりで幸せになろうって約束したでしょ、その約束を果たすために、少し遠回りをするだけよ、一度全部忘れて、もう一度最初からやり直すだけ、もう一度咲太と出会って、もう一度咲太と恋をして、もう一度咲太に告白されるの、そしたら、ふたりで幸せになるわよ、とやさしく微笑みかけながら語る麻衣に、咲太は、約束します、と握った麻衣の手を少し強く握って答えるのだった。
 病院に着いた咲太は、麻衣と別れ、ナースの案内で、翔子がいる無菌室に通される。牧之原さん、と咲太が声を掛けると、翔子は閉じていた目を開け、小さな手を少し持ち上げる。その手を両手で握る咲太。こんな姿、咲太さんに見られたくなかった…と話し、酸素マスクを外す翔子。咲太は躊躇しながら、今を逃したら次はないと思い、『将来スケジュール』の話を切り出すと、翔子が語り出す。わたし、ずっと不思議な夢を見てました、高校生になったわたしが七里ヶ浜の海岸で年下の咲太さんと励ましたり、大学生になったわたしが咲太さんのおうちに泊まって…夢でも、咲太さんとあんな風に過ごせて楽しかったです、と満ち足りた顔で話す翔子。それは偶然の一致ではなく、咲太が体験してきたことだった。わかっていますよ、咲太君、あれが本当の未来だったことも…今が未来だっていうことも、もうわかっちゃいました、と語る翔子に、そうだよ…だから、過去を変えれば、牧之原さんが助かる道もまだ見つけられるかもしれない、と咲太が話すと、翔子は、ダメです、過去をやり直しても、わたしの病気を治すのは難しいと思う、だけど、今、咲太さんを苦しめている悲しみから、咲太さんを救い出すことはできると思う、わたしが思春期症候群を起こしたから、わたしと咲太さんは出会ってしまった、と語る。牧之原さんは何も悪くない、僕は牧之原さんと翔子さんと出会ったことを一度だって後悔したことはない、一緒に過ごした時間は全部大事なものなんだ、出会ってなかったら、僕は今の僕になっていないんだから、と想いを伝える咲太に、翔子は瞳に涙をためて、咲太さんはいっぱいがんばってくれました、だから、もうだいじょうぶですよ、わたしがちゃんとやり直してきます、咲太さんと出会わない未来を作るために…と話し出す。違う、僕はそんなことをいいたいんじゃない、やり直すのは、牧之原さんのだめでいいいんだ…と咲太は訴えるが、その言葉は届かない。だから、咲太さんは何も心配しなくていいんですよ、全部、わたしに任せてください、絶対に咲太さんを幸せに……だから……と話すと、翔子の手から力が抜け、眠りに入る。咲太は、自分のことを考えていいんだよ…と溢れる想いを涙をこらえ、肩を震わせながら吐き出す。
 看護婦に促されて咲太が無菌室を出ると、麻衣と理央が待っていた。麻衣が翔子の病室から持ってきた『将来スケジュール』を見せると、そこには新しい内容が書き込まれていた。「『ありがとう』『がんばったね』『大好き』を大切にして生きていく」と。そして最後は、「いつか、やさしい人になりたいです」という一言で締めくくられていた。翔子が、昨日になって、急に宿題をやっておきたいと言い出したのだという。咲太はそれを見て涙を流し、僕はどうしたらいい?とすがるような思いで理央を見る。理央は、こんなことしか思いつかない、と赤鉛筆を渡す。翔子ちゃんはすごくがんばったのよ、だから、咲太が翔子ちゃんの宿題を終わらせてあげて、という麻衣の言葉に促されて、咲太はプリントに大きな花マルを付けるのだった。
 特別に病院に泊まることを許された咲太たちは、ICUを出てすぐの廊下で新年を迎える。翔子の命を奪おうとする時間がこれ以上進まなければいいと、祈るような空気が漂う中、咲太たちは眠りに落ちていく。ICUに続く自動ドアが開いて、――翔子ちゃんが……と誰かの声を聞いた気がするが、それより早く、咲太の意識は眠りの世界に旅立っていた。咲太は夢の中で、授業でプリントを「書けました」と言って笑う小学4年生の翔子の姿を見るが、知っているような気がするその子の名前は、いくら考えても思い出すことができなかった。

第四章 やさしさとやさしさの手をつないで

1.1月6日、咲太は花楓に起こされて目が覚める。三学期を翌日に控え、花楓はひとりで校門まで行って帰ってこれるようになっていた。
 バイトに行くため外に出た咲太は、麻衣の家からミニライブのために出てきたのどかに会い、翌月のバレンタインライブに誘われる。

2.バイト先のファミレス、咲太は、佑真や朋絵、そして来店した理央と、いつも通りのなにげない会話を交わす。

3.午後2時にバイトを終え、麻衣と約束した初詣に向かう咲太は、藤沢駅で途上国支援の募金に小銭を入れる。待ち合わせ場所の鎌倉駅で麻衣と合流し、歩き出す。
 2人が向かったのは鶴岡八幡宮。階段を上がり、お賽銭を入れようと咲太が財布を開くと、小銭が全くない。藤沢駅で小銭をすべて募金したからだ。3年ほど前から、募金活動を見かけると、財布の小銭をすべて募金するようになっていたのだ。咲太は、麻衣になけなしの千円札を奪われ、お賽銭箱に入れられてしまう。麻衣に聞かれ、今年はあまりおかしな出来事には遭遇しないようにお願いしたと話す咲太は、前年の麻衣や朋絵、理央、のどか、かえでとの出来事を思い返す。
 初詣の後、2人は七里ヶ浜の海岸に向かう。咲太は、女子高生にここで何度も会い、なんか助けられた夢を見ていたが、顔や名前は思い出せない。麻衣にとっても、中学時代の主演映画の舞台となった思い出の場所。麻衣が生まれながら移植手術しか治療法がない重い心臓の病気を抱えたヒロインを演じたその映画で、その病気が世間に認知されるようになり、臓器移植に対する世の中の捉え方も変わったのだった。砂浜から道路に上がる階段の下で、咲太たちは、中学生くらいの少女とその両親とすれ違う。手術を受けたといっても、体に障るといけないから、少しだけだよ、と声をかける両親に、もう元気になったからだいじょうぶ、と波打ち際で遊ぶ少女。咲太は少女を知っている気がするが、思い出そうとしても何も思い出せない。しかし、階段を一歩上がったそのとき、意識するよりも先に、体、そして心が反応した咲太は、海を振り返り「牧之原さん!」と知らない名前を叫んでいた。そして、名前も、記憶もすべてが蘇る。目を丸くして、信じられないような目で咲太を見た少女だったが、すぐに顔をしわくちゃにして泣き出すと、涙を拭おうともせず、「はい、咲太さん!」と笑うのだった。

 

冷静に読むと、とりわけ第四章の展開は、おそらくICUで眠りに落ちたときに過去が変わったのだろうと思いますが、目が覚めて翔子の記憶をなくした咲太たちはどう思ったのだろうとか、理央たちが危惧していた咲太が理央や佑真、麻衣と出会わない過去にならなかったのはなぜだろうとか、咲太が経験しないことになった別の過去を思い出せたのはなぜだろうとか、謎が多いところがあります。おそらく、一定の裏設定はあるのでしょうけど、それまでのようにその理由が説明されることはなく、読者の想像に委ねられています。

しかし、それを差し引いても、心の襞を表現する描写が見事で、胸に迫りました。一例に過ぎませんが、日頃だったら何気ない会話に過ぎない「ただいま」「おかえりなさい」のやりとりに思いを込めて激しく感情を揺さぶるところなど、巧みな表現に揺さぶられました。