山内マリコさんの小説「ここは退屈迎えに来て」を読みました。
本作を原作にした2018年10月公開の廣木隆一監督の映画「ここは退屈迎えに来て」は、公開直後にスクリーンで観ていました。図書館でたまたま目にして、原作も読んでみようと手にしてみました。
もとは2012年8月に単行本として出版された山内マリコのデビュー作。2014年4月に文庫本版が刊行されています。
文庫本の背表紙には、次のような紹介文が掲載されています。
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そばにいても離れていても、私の心はいつも君を呼んでいる—―。都会からUターンした30歳、結婚相談所に駆け込む親友同士、売れ残りの男子としぶしぶ寝る23歳、処女喪失に奔走する女子高生……ありふれた地方都市で、どこまでも続く日常を生きる8人の女の子。居場所を求める繊細な心模様を、クールな筆致で鮮やかに描いた心潤う連作小説。
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作品は、8編の短編からなる連作小説。各編のおおまかなあらすじを紹介すると、次のようなもの。
1 私たちがすごかった栄光の話
2か月に東京から地元に戻り、ライターとして働くようになった30歳の「私」は、フリーカメラマンの須賀さんと組み、タウン誌の取材に出る。そんなある日、母親が偶然会ったことがきっかけで、高校時代の親友だったサツキと会ってお昼を食べ、高校の人気者で、卒業間際に仲良くなった椎名一樹に会いに彼が働く自動車学校に行く。椎名は2年前に結婚し、1歳になる娘もいる普通の人間になっていた。
2 やがて哀しき女の子
バイト先でかつてモデルやタレントで活躍した憧れの27歳の森繁あかねと親友になった25歳の山下南。結婚を考える2人は結婚相談所に入会するが、出不精で人見知りの南はやる気をなくしていく一方、あかねは43歳の小さな会社の社長と知り合い結婚する。28歳になった南は、あかねの紹介で、ひとつ年下で自動車教習所の教官をしている椎名一樹と会い、付き合い出す。
3 地方都市のタラ・リピンスキー
25歳の大学院生の「ゆうこ」こと新保健大は、研究室に顔を出すのが億劫になり、ゲームセンターに通うようになるが、そこでかつて同じクラスだったことのある店長の椎名一樹と出会う。ゲーセンに入り浸るようになったゆうこは、椎名に自動車学校への転職を勧める。
4 君がどこにも行けないのは車持ってないから
椎名一樹が大阪に行ってしまってから、なりゆきで椎名の高校のクラスメイトで彼氏のように振る舞い付きまとうようになった遠藤と付き合う「あたし」。ラブホテルに行き、セックスした後眠った遠藤に幻滅して自分の不幸を嘆き、遠藤を残してホテルを出る。道で出会ったロシア人とのやり取りをきっかけに、椎名にとってのあたしは、あたしにとっての遠藤みたいなものだったと悟った「あたし」は愕然となる。
5 アメリカ人とリセエンヌ
大阪の大学に入学して、1年間の交換留学生としてやってきたアメリカ人のブレンダと親友になった「わたし」。大学の知り合いに無理やり誘われて行った街のクラブで会った椎名は、ブレンダに声をかけデートに誘う。ブレンダも椎名を好きになるが、椎名に触られて感じるフリの下手な演技をしたのが原因で、関係が冷めてしまう。
6 東京、二十歳。
椎名の3歳下の妹の朝子は、高校受験のころから通って教えてもらっていた家庭教師のまなみ先生に憧れていた。先生の一人暮らしの部屋に魅了されて、東京の大学に進む。東京の街に疲労困憊しても、朝子は田舎になんか帰らないと意を強くする。
7 ローファー娘は体なんか売らない
高校生のなっちゃんは、学校に迎えにきた38歳のサラリーマンの車に乗ってラブホテルに行き、男とセックスする。男は今度お見合いすることになった、もしかしたらもう合わないかもしれないと話す。車を下りて歩くなっちゃんは、同じクラスでサッカー部帰りの椎名が自転車に乗っているのに遭遇して、自分がその自転車の後ろに乗る姿を想像する。
8 十六歳はセックスの齢
高校に入学して、セックスに興味津々の「あたし」と親友の薫ちゃん。薫ちゃんは中学2年生のときの同級生でサッカー部のエースだった椎名への憧れを口にする。秋になり、現実世界に見切りをつけた2人は、どうしたら淫夢が見られるか研究を始める。冬休み明け、薫ちゃんは学校に来なくなり、「あたし」が家に行くと、秋口からよく寝るようになり、ついに目覚めなくなっていた。2年生になり、同級生の柴田と処女喪失を果たすが、想像との違いに幻滅する。1年経って薫ちゃんは目を覚ますが、薫ちゃんの初体験は25歳になってからだった。
(ここまで)
椎名一樹に何らかの形で関係を持った女性たちが織りなす心模様を描いた連作短編集。時系列的には、椎名一樹の歳で言うと、30歳から15歳まで、短編が進むごとに時期がさかのぼっていく形で構成されています。
以前に観た映画版は、1「私たちがすごかった栄光の話」の要素をメインに、5「アメリカ人とリセエンヌ」と8「十六歳はセックスの齢」以外の各編の要素が散りばめられていたように思います。スクリーンで観たときは、やり場のない切なさが痛く刺さる感覚がありましたが、本作を読むと、各編の主人公の女性の一人称の語りという文体もあって、それぞれが自分の道を歩いている、という印象を受けました。