鷺の停車場

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川越まつりに行く②川越まつり会館、氷川神社、本丸御殿ほか

(つづき)川越まつりを目当てに川越にやってきた日曜日、蔵の街並みの途中にある「うなぎ傳米」でお昼を食べた後、「亀屋栄泉」で買物をした後、さらに130mほど進んだところに「川越まつり会館」がありました。


この日は祭りの当日ですが、予習というつもりで入ってみることにしました。

入館料は大人300円ですが、美術館・博物館・本丸御殿にも入れる4館共通券が600円ということだったので、そちらを購入。


開館20周年なんですね。


中に入ると、ちょうどお囃子の実演が終わったところで、残っていた方がポーズを取ってくれました。


入場時にいただいたリーフレット

川越には全部で29台の山車があって、今年のお祭りでは、そのうちの18台が出るとのこと。館内には通常は2台の山車が展示されているそうですが、そのうちの1台、川越市の山車は、お祭りのため不在となっていました。


山車は、江戸時代に江戸で使われていた山車を基に発展したものだそうで、台座の上に回転式の舞台が組まれ、最上部の人形は手動で上下する迫り上げ式になっています。迫り上げ式になっているのは、山車が江戸に往還する際に高さがネックになったために設けられたとのこと。


製作途中の山車も展示されていました。私財を投げ打って山車を製作しようとした資産家が亡くなり、製作が中断してしまったものを遺族が寄付されたのだそうです。ここまで製作するのに3,000万円以上、ここから完成させるには約1億円の費用がかかり、トータルでは山車1台を新造するためには1億3,000万円以上かかるのだそうです。


さて、12時20分ごろ、「川越まつり会館」を出ます。上の写真はこれまで歩いてきた方面を振り返ったところ。昼を過ぎて、人がちょっとずつ多くなってきました。

さて、蔵の街並みをさらに300m進んで、街並みを抜けた先にあるT字路を右折して、氷川神社へと進みます。


途中にあった掲示板には、祭礼の日程の案内がありました。メインの祭礼は10月14・15日の土日ですが、その前の10月8日(日)、13日(金)にも行事があるようです。


右折してから450mほど歩いて、12時35分ごろ、氷川神社の前に到着。


神社でいただいたリーフレット


ここでちょっとお参りします。


境内には、能舞台もありました。


横に境内を抜けると、大きな鳥居がありました。


氷川神社のすぐ近くでは、宮下町の山車がお囃子を奏でていました。

12時40分すぎ、氷川神社を出て本丸御殿に向かいます。地図を見ずに勘を頼りに、県道51号(川越上尾線)沿いに600mほど歩いて、12時50分ごろ、川越市役所の前に出ました。ここに本丸御殿への方向を示す案内板があったので、それに従って左折します。結果的には遠回りになってしまったようです。


川越市役所。市役所の向かいには椅子が並べられていましたが、ロープが張られ、神幸祭は中止との掲示されていました。神幸祭とは、氷川神社の神様を神輿に乗せた行列が川越の街を巡行する、川越まつりの起源となる祭事なのだそうで、並べられていた椅子はその観覧用の席だったようですが、あいにくの雨のため中止となったようです。

さて、「市役所前」交差点を左折してから550mほど歩くと、本丸御殿の道を挟んで向かい側に市立美術館と市立博物館がありました。川越まつり会館で購入した4館共通券で入れるということなので、こちらもちょっと寄ってみることにします。


まず、市立美術館。入館料は大人200円。


館内の案内図。常設展示室は地下1階、相原求一郎記念室が1階にあります。


次いで、市立博物館。こちらも入館料は大人200円です。


入館時にいただいたリーフレット


館内の案内。


江戸時代の川越の街の模型。
美術品の多くはレプリカでしたが、古墳の出土品から近世の生活用具まで、幅広い時代の物が紹介されていました。


蔵造りの内部構造を紹介する模型もありました。


13時40分すぎ、博物館を出て、道の向かいの川越城本丸御殿へ。天気予報のとおり、もう雨はすっかり上がり、晴れ間も見えてきました。


こちらは県指定文化財となっているそうです。入館料は大人100円です。


入館時にいただいたリーフレット

中に入ると、ボランティアガイドの方に声を掛けられ、その案内を聞いて見学することになりました。

かつては藩の執務は二ノ丸にあった御殿で行われていたそうですが、それが火災に遭い、代わりに更地だった本丸に明治維新の約20年前となる1848年に建てられたのが本丸御殿で、その多くは明治維新後に取り壊されてしまったそうです。今残っている建物は、明治維新後に県の役場として使われたことで、取り壊されずに残ったのだそうです。なお、戦後の一時期には、小学校の屋内体育場として使われたこともあったのだとか。


本丸御殿の全体の配置図。赤枠の部分が、現在残っている部分になります。上の赤い囲みの家老詰所は、後になって近く移築されたのだそうです。

14時20分すぎ、本丸御殿を出て、再び市役所方面に向かいました。(つづく