宮下奈都さんの小説「ふたつのしるし」を読みました。
宮下奈都さんの小説は、実写映画化された作品をスクリーンで観た後に原作の「羊と鋼の森」を読んだのをきっかけに、これまで何冊か読んできましたが、この本をたまたま見かけて、手にしてみました。
本作は、「GINGER L.」09号(2012 WINTER)から15号(2014 SUMMER)にかけて連載され、加筆・修正を加えて2014年9月に単行本として刊行された作品。2017年4月に文庫本化されています。
文庫本の背表紙には、次のような紹介文が載っています。
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美しい顔を眼鏡で隠し、田舎町で息をひそめるように生きる優等生の遥名。早くに母を亡くし周囲に貶されてばかりの落ちこぼれの温之。遠く離れた場所で所在なく日々を過ごしてきた二人の"ハル"が、あの3月11日、東京で出会った―—。何度もすれ違った二人を結びつけた「しるし」とは? 出会うべき人と出会う奇跡を描いた、心ふるえる愛の物語。
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主な登場人物は、
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柏木 温之:主人公。不器用な人間で勉強はできないが、地図が好き。高校生の時に家を出て、19歳の時に電気の配線工になる。
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大野 遙名:もう一人の主人公。温之より6歳年上。優等生で、地方から兄が進んだ東京の難関大学に入り、東京で医療用機器を販売する会社に就職、2011年に温之と出会い、結婚する。
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柏木 しるし:2011年の大晦日に生まれた温之と遙名の娘。
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柏木 容子:温之の母。温之を温かい目で見守っていたが、温之が18歳の時に交通事故で亡くなる。
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柏木 慎一:温之の父。温之のことがよく理解できない。
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大野 聡:遙名の4年上の兄。大学を出て金沢で中学教師となったが、その後俳優を目指して修行中。
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大野 洋司:遙名の父。家では温厚なやさしい人だが頑固な一面も。
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大野 恵子:遙名の母。
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浅野 健太:小学1年生の時に温之と同じクラスとなった男の子で、温之と友人になる。
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ミナ:高校生の時に家を出た温之に声をかけて自分の家に招き入れ、しばらく一緒に暮らした女の子。
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社長:電気工事会社の社長。電気工事の現場作業のアルバイトに来た温之を気に入り、社員に取り立てる。
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美香里:大学に入った遙名の友人となった同級生の女の子。
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沖田:大学に入った遙名が同じクラスとなった男の子。アーチェリー部。
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仲村:遙名の会社の10歳くらい年上の課長。
という感じ。
作品は、第1話から第6話までの6章で構成されています。それぞれの章の大まかな内容・あらすじを紹介すると、次のような感じです。
なお、第1話から第4話までは、それぞれ「ハル」(=温之)、「遙名」と題する中見出しで区切られており、それぞれの時期の温之と遙名がそれぞれ別に描かれています。
第1話 1991年 5月
小学校に入った温之(ハル)だったが、自分だけの世界に入ってしまい先生の話を聞かず、母の容子は担任から苦情を言われる。健太は、先生のいうことは聞くもんだと思い込んでいた自分と違う温之をすごいと思い、大事にしようと心に決める。健太はハルのことを思ってその宿題を代わりにやってあげるが、それが先生にバレて、消しゴムで消させられ、涙を流す。その涙を見たハルは、自分は何か間違っているのだろうかと初めて思う。
一方、中学校に入った遙名は、成績がいい自分が目立たないように、わざとばかっぽいしゃべり方をしたりして、できるだけおとなしく過ごそうと努めるが、息苦しさを感じる。そんな中、校外学習で行ったホテルでの昼食で、食事の前に支配人が退屈な話を続けるのに我慢できなくなった遙名は、無意識のうちに非難の声を発してしまう。食事となり、運ばれてきた冷めた鮭のソテーを遙名はフォークを突き立てて食べると、向かいの友人もそれを真似して食べ、何がおかしいのか全然わからないが、笑いが止まらなくなる。
第2話 1997年 9月
中学1年生となったハルは、国語の時間に口の右下の奥の乳歯が抜ける。周囲の子は歯が折れたと先生に報告し、保健室に行くことになる。養護教諭は、歯を上に投げようとハルを誘い学校の中庭に連れていく、しかし、話は大きくなって、ハルは誰かに殴られて歯が折られたという噂が広まり、容子とともに校長室に呼ばれてしまう。その話を聞いた慎一は、温之の態度にも問題があるからだろう、なおせばいいと言うが、容子は理解できず口論になり、なおすつもりのないハルは席を立つ。健太は、働き蟻は8割しか働かない、それは、いざというときのためで、いざというときに自由な蟻たちが力を発揮するんだ、おまえはいざというときのための人間なんだ、とハルを励ます。
一方、大学生になって上京した遙名。父は強硬に東京に行くことを反対したが、聡の一言で、同じ大学なら行くことを許されたのだった。学食で一人で昼食を食べる遙名に声をかけた同じクラスの沖田は、遙名ちゃんて、いいとこのお嬢さんって感じだよね、気をつけな、あんたって婚期逃しそう、不倫する、見てたら軌道がわかる、と語る。午後の講義はパスして寮に帰る途中、遙名は、中学校の校舎の影で、白衣を着た女と、何かを空へ高く放り投げるしぐさをする少年を見かける。
第3話 2003年 5月
容子が隣町で車に撥ねられて亡くなる。ハルは、母を亡くした後、何を目印に生きていけばいいのか、まるでわからない。高校へも行かなくなったハルは、ある日思い立って、家を出る。慎一は、それを責めず、長くなるなら、連絡くらいしろ、と言って送り出す。歩くハルの頭の中に、生きる意味はあるのか、と質問が鳴り続ける。できるまで遠くまで行こうと、JRを乗り継いで、電車を降りたハルが歩いていくと、海水浴場に出る。あてもなく砂浜を歩き続けるハルに、急に女が近づいてきて体当たりし、2人は砂浜に転がる。起き上がったハルを、女は近くの自分のアパートに連れていく。仕事に行って帰ってきた女は、ハルの服を脱がせて、ぴったりと裸の身体を押しつけてくる。女の裸など見たことがないハルは頭の中が真っ白になり、身体が熱くなる。
一方、入社3年目の遙名は、会社の歓迎会に参加し、一次会の店を出たところでひっそり帰ろうと思ったが、思いのほか二次会のディスコの店が近く、なりゆきで参加することになる。仲村に強く誘われて一緒に踊った遙名は、気持ちが高揚し、楽しいと感じる。休日出勤の帰り、遙名は駅前で仲村を見つけ心臓が高鳴る。仲村が既婚者であることを知っている遙名は、理性でそれを抑えようとするが、その足で向かった書店で仲村と鉢合わせし、お茶に誘われる。
第4話 2009年 7月
電気の配線工として働くハル。19歳の時、ショッピングモールの改装の電気工事の現場作業のアルバイトで1か月半働いたハルは、電気工事会社の社長に声をかけられ、一緒に住んでいたミナのアパートを出て東京の本社で働くことになったのだ。雑用から働き出すが、地図が好きで配線図に興味を持ったハルは、どんどん仕事を覚えていき、3年を過ぎるころから、社長の助手としてつくようになっていた。ある日、電圧が不安定になっているという現場のオフィスに行ったハルは、偶然通りかかった女性が目に入る。「遙名さん」と呼ばれたその女性を見てハルは、この人を知っているという思いが不意によぎり、目を離すことができなくなる。
一方、仲村から避けられているような違和感を感じていた遙名は、仲村に会えるのではないかと期待して、土曜に出勤して仕事をしていると、正午過ぎになって、仲村がやってくる。話しかけた遙名に仲村は、アメリカに異動になり家族と行くことになったと話し、わかれたい、と告げる。遙名は脅し文句をぶつけてオフィスを出るが、仲村には効かず、遙名は部屋に帰って泣く。翌日、久しぶりに大学の同級生の美香里に電話すると、美香里は結婚するんだ、と話す。何かあったの、と聞かれた遙名は、誘いに乗って会うことにする。
第5話 2011年 3月
32歳になった遙名は、会社で大きな地震に遭う。仕事を続けられる状況ではなく、歩いて帰ることにするが、会社を出て数歩歩き出したところで、パンプスで何時間かかる?と思い立ち止まる。そこに、若い男が「遙名さん」と声をかける。それは見覚えのない、作業着を来た20代の後半と思われるやさしげな顔つきの青年だった。青年は、ビルの電気工事を請け負った会社の技師で、遙名さんが心配だった、迎えに来たと話し、近くまで送ると、押していた自転車の荷台に遙名を乗せて走り出す。途中、青年は、柏木温之と名乗り、2年くらい前に電気の配線の点検に来たときに見かけた、しるしがついていたのですぐにわかったと話す。
1時間半ほどで遙名のマンションの前に着き、遙名は、お茶、飲みませんか、とハルを自室に招く。今日であったことは特別な気がした遙名は、弱っているときに駆けつけてくれるなんて反則だ、ずるい、と思うが、ハルの言葉で、ずるいの前に、うれしい、ありがたい、という感情があったことに気づく。お茶を飲み終わり、ハルは困っていそうな人を運ぶ手伝いをしようと思う、役に立てなかったら帰ってくる、と出て行き、遙名は全身から力が抜ける。
遙名は、きっとこの道を帰ってきてくれるだろうと思える気持ち、また会えると信じる気持ち、しるしとはこれのことだったのかと思う。ハルにもしるしがついているからわかる、ハルは帰ってくる、と感じる。
第6話
しるしが髪のカットから帰ってくると、父・温之の幼なじみの健太が、今度結婚する三田村綾乃という女の人と一緒に来ていた。学校の二分の一成人式のために、自分の生い立ちについていろんな人に話を聞いて作文を書くことになっているしるしは、温之の父の慎一にも話を聞きに行っていた。健太は、温之が若い頃の話、大震災の時に車を出してと頼まれた時の話を語って聞かせる。
健太たちが帰った後、しるしは、母・遙名にどうして父と結婚しようと思ったのか聞いてみる。遙名は、勘だと答え、人生には意外と勘が大事、温之と会って初めて自分がなぜここにいるのかわかった、謎が解けたと話す。しるしは、それって謎が解けたのではなく、好きになっちゃったってことじゃない、まどろっこしい、と思うが、おじいちゃんは、一流大学を出て大きな会社に勤め、賢くてきれいなお母さんが高校中退の不器用な息子と結婚したのか不思議だったのだろう、健太の話をおじいちゃんにも聞かせてあげたかったと思う。そしてしるしは、「生い立ちの記」を書き上げる。
なお、この話だけは、年月が明示されていませんが、2011年の大晦日に生まれたしるしが10歳で小学4年生であること、近く学校で二分の一成人式をやることが記されていることなどから、2022年の1月あたりの時期だろうと推測されます。また、3月11日に出会った2人の間に、同じ年の12月31日にしるしが生まれたという設定によって、2人が出会ってすぐに結ばれて結婚したこと(普通に考えると、結婚の方が後だったのでは?)も示されています。
(ここまで)
勉強ができず不器用の塊だった温之と、頭が良く表面上はうまくやっているが生きにくさを感じていた遙名が、それぞれの人生を歩んでいく中で、かすかな出会いが生まれ、そこで遙名に「しるし」を見い出した温之の一途な行動によって、あの大震災の日に、奇跡のような再会を果たし、出会うべき人と出会った2人は結ばれます。
「しるし」がついているのを見つけた、というのは、私自身は感覚的な実感はありませんが、ある種の一目惚れ、それも、自分にはこの人だ、という運命を感じる出会いのことだろうと思います。本作の最終話で、運命的に出会ってすぐに結婚し、間もなく子どもを授かって10年が経っても、2人は相変わらずいい関係を保っているところを読んで、安堵の思いを覚え、読後に優しい余韻が残る作品でした。