鷺の停車場

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川村元気「四月になれば彼女は」

川村元気さんの小説「四月になれば彼女は」を読みました。

週刊文春の2016年5月5日・12日号から10月6日号にかけて連載され、2016年11月に単行本として刊行された作品、2019年7月に文庫本化されています。

 

文庫本の背表紙には、次のような紹介文が掲載されています。 

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4月、精神科医の藤代のもとに、初めての恋人・ハルから手紙が届いた。だが藤代は1年後に結婚を決めていた。愛しているのかわからない恋人・弥生と。失った恋に翻弄される12か月がはじまる―—。なぜ、恋も愛も、やがては過ぎ去ってしまうのか。川村元気が挑む、恋愛なき時代における異形の恋愛小説。 解説・あさのあつこ

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主な登場人物は、次のようなもの。

  • 藤代 俊:医学部の3年生の時に新入生の春に出会う。現在は大学の附属病院で精神科医をしている。

  • 坂本 弥生:1年後の4月に結婚が決まっている俊の恋人で、同じ大学構内にある動物病院で働く獣医。

  • 伊予田 春:大学時代の俊の2年後輩の恋人。青森県出身。

  • 純:弥生の4歳下の妹。3年前に10歳上の公立高校の数学教師の松尾と結婚した。
  • 奈々:藤代と同じ病棟に勤める後輩の医師。
  • ペンタックス:俊の同期の写真部の部長。いつもペンタックス社のTシャツを着ていることから、俊があだ名をつけた。
  • ヌシ:留年を2回重ねた4年生で写真部室の主。

  • 大島:写真部によく顔を出す8年前に大学を卒業したOB。

というあたり。

本作は、冒頭のハルが藤代に書いた手紙の後、月ごとのタイトルが付いた12節が続く構成になっています。それぞれの節のあらすじ、概要は次のような感じです。

(冒頭)

ハルがボリビアのウユニから送った藤代宛ての手紙。春はウユニのホテルで出会ったアルゼンチン人の男性から告白されたことを語り、俊との恋の始まりについて回想する。 

四月になれば彼女は

医学部の3年生となった藤代は、文学部に入学し、祖父から譲ってもらったマニュアルの一眼レフの大きなカメラを首から下げて写真部の部室にやってきたハルと初めて出会う。ハルを連れて写真を撮りに渋谷の街に出た藤代は、人の顔を正面から撮れるようになりたい、いいポートレートを撮るためにはその人のことを知りたいという気持ちが必要な気がするが、僕にはそういう欲がない、あまり人間の深いところにいきたくないという気持ちがあると話し、ハルは写らないけど美しいと思えるものに出会いたい、感じていたなにかを残すためにシャッターを切ると話す。

五月の横顔

藤代は翌年4月に結婚することになった弥生とともにウェディングプランナーと結婚式の打ち合わせをする。同棲して3年になる2人は、家でフランスの恋愛映画を観ながら話をし、別の部屋でそれぞれのベッドで眠る。コミュニケーションは過不足なく進むが、2人にはこの2年セックスはなかった。

六月の妹

大学時代の藤代。大島の誘いで、アイスランドのバンドの来日公演にハルとペンタックスと一緒にライブハウスに行く。その音楽は藤代やハルの心を揺り動かす。その帰り、藤代と2人になったハルは藤代に告白し、藤代もハルが好きだと答え、幸せな気持ちになって涙がこみ上げる。それから、ふたりは互いに写真を撮り、贈り合うようになる。そんな折、藤代は母親から離婚を決めたことを聞かされ、ハルは、ずっとそばにいる、と藤代を抱きしめる。
藤代と弥生は、純とその夫の松尾を誘い、結婚式の食事の試食会に行く。その後、弥生から純が相談があると声を掛けられ、純と2人で会うことになる。純は、夫の松尾とは結婚前から4年間セックスレスであること、松尾以外にセックスをする人が3人いて3日に一度くらいはしていることを話す。藤代と弥生がセックスレスであることを見抜いた純は、ないしょでわたしとしてもいいよ、と誘う。

七月のプラハ

ハルからの3か月ぶりの手紙が、プラハから届く。手紙には、時計職人のチェコ人の青年とレストランで食事をしたこと、店を出て街を歩くうちに藤代のことを思い出していたこと、9年前、なぜわたしたちは別れてしまったのだろうと考えてきたことなどが書かれていた。
病院での藤代は、後輩の奈々に、友達から変な相談を受けていると、自分が純と会ったときの話を、友達から聞いた風にして話す。奈々は、ほとんどの人が結婚やセックスに期待しすぎているように思うと話す。
結婚式のチャペルの見学に来た藤代と弥生。弥生は愛とか言っててもすぐ情に変わっちゃう、と話し、それが家族になることかもしれないよと言う藤代に、そんなふうに割り切りたくない、と話す。

八月の嘘

日曜日、昼食後に読書をしているうちに眠ってしまった藤代は、純に肉体関係を迫られる夢を見る。藤代は、それを5年前に知り合い、2か月に一度ほどのペースで一緒に酒を飲むようになった友人のタスクに話す。
前回会ったときのことを詫びる純からのメールで、藤代は駅ビルのカフェで再び純と会う。純は、弥生は彼氏ができるといつも重くて大変だったと、高校生の頃の弥生のエピソードを話す。

九月の幽霊

写真部の夏合宿から帰ってきて1月後、ハルが実家に帰省しひとりきりになった藤代は、ハルの勧めで合宿で撮った写真を現像するために大学に行く。写真部の部室に行くと、大島が写真を現像していた。大島はハルちゃんのことが好きなんだ、いや、これが恋愛感情なのかよくわからないんだ、と話し、妻は5年前に精神的に壊れた自分を助けてくれた、どこまでもわかり合えているし、とても大切で、一緒にいるべき人だが、妻のことをいま愛しているかどうかわからないと打ち明ける。
そして、ハルからの電話で藤代が駆け付けると、大島はホテルのベッドの上で昏睡しており、ハルは放心状態で、何があったのか訊ねても、助けてとささやくように繰り返し、涙を流すだけだった。
大島が意識を取り戻したと聞いて、藤代とハルは写真部を代表して見舞いに行くが、大島の妻はロビーで出迎え、大島は幸せを感じれば感じるほど危うくなっていくと話し、ハルに気にしないでくださいと声を掛けるが、病室に入れることはなかった。その帰り、大島が階段を降り、廊下を駆けてくる。ハルは逃げ出すように病院を飛び出す。藤代はハルを追いかけるが、歩道橋から藤代を見るハルの顔を見て、藤代はきっともう僕はハルに追いつくことができない、と思い、消えていくハルの後ろ姿を見送る。
その日を最後に、藤代は写真部に行かなくなり、逃げるようにハルと別れたのだった。
部屋で弥生と映画を観る藤代は、隣で涙を流す弥生に、その気持ちを読み取ることができず、何もすることができない。弥生は、藤代はまるで幸せじゃないみたい、と言い、藤代は言葉を失う。

十月の青空

アイルランドレイキャビクからのハルの手紙が届く。手紙には、ロックフェスティバルで大島を見つけて追いかけたが姿を消してしまったこと、その夜、ペンタックスからの5年ぶりのメールで大島が交通事故で亡くなったことを知ったこと、大島をずっと許せなかった一方で、後ろめたさも感じていたことなどが書かれていた。

十一月の猿

藤代は、病院に運ばれてきた患者が連れていたチワワを引き取ってもらおうと、大学構内の獣医学部に行って弥生と出会った。弥生に会いたいと思った藤代は、休憩時間によく獣医学部の校舎に出向き、チワワにエサを上げたりするようになる。ある夜、弥生と一緒になり駅まで話をしながら帰った藤代は、弥生と付き合うかもしれないという予感を抱く。
その後、藤代と飲んだ弥生は、私結婚するんだ、と言って笑い、式まであと半年なのに何も決まってない、とこぼす。その夜、弥生は藤代のマンションに来て、レンタルビデオ屋で借りたDVDを2人で観て、映画について語り合う。毎週土曜日、弥生は藤代の部屋で朝まで映画を観るようになり、結婚式を数週間後に控えた土曜日、映画を観終えた弥生は、藤代とふたりで会うのは最後だと思うからと、藤代を誘い動物園に行く。そして、その翌週、弥生は婚約を破棄し、藤代の部屋にやってきたのだった。

十二月の子供

金曜日の夜、弥生は突然いなくなる。メールを入れても返信はなく、職場に連絡しても、長い休みを取っているとしか教えてもらえない。困った藤代は純に相談するが、現実感はなく、弥生を失うかもしれない絶望も、弥生を切実に求める気持ちも見つからなかった。純は、妊娠5か月であることを明かし、藤代と最初に2人で会って帰った後、4年ぶりに松尾とセックスしたのだと話す。
病院で友達から聞いたことにして純とのことを話す藤代に、奈々はそれが藤代自身の話だと見抜いて指摘し、自分が男性と一緒にいることができなくなったわけを打ち明ける。その夜、帰宅した藤代に、弥生からの手紙が届いていた。

一月のカケラ

弥生からの手紙は、東京から遠く離れた場所から届いたエアメールだった。私たちは愛することをさぼった、ここまま私たちが一緒にいることはできない、私は失ったものを取り戻したいと思っている、と弥生は綴っていた。

二月の海

藤代は、電車に乗って小さな駅で降り、タクシーに乗って海辺の大きな一軒家を訪れる。3日前に、ペンタックス経由で連絡先を聞いた中河という女性からハルについて話したいことがあると告げられ、やってきたのだった。そこは、あまり先が長くない患者が最期のひとときを過ごすための病院だった。ハルはがんで亡くなる直前、ここで暮らしていた。中河は藤代にハルの最期の日々の様子を話し、ハルの大きなマニュアルカメラを渡す。
藤代は、カメラに入っていたフィルムを現像するため、大学の写真部の部室を訪れる。OBであることを告げると、部員たちは暗室を使うことを快く了承し、藤代はハルの写真を現像していく。それは、海上の厚い雲に遮られながら、懸命に光を放つ朝日を撮った写真だった。写真を見た藤代からは嗚咽が漏れる。
誘われてタスクと飲む藤代は、弥生とのことを話すと、タスクは、結局藤代は弥生を見捨てようとしている、と鋭く指摘し、かっとなった藤代の頭は一瞬に冷める。帰宅した藤代が弥生の寝室に入ると、そこには、知らぬ間に届いていたハルからの最後の手紙があった。

三月の終わりに彼は

藤代はインドのカニャークマリに向かっていた。そこは、ハルと旅行に行ったが、その朝日を見逃して帰ってきた場所だった。ハルからの最後の手紙には、最後に行く場所はカニャークマリと決めていた、フジと見ることができなかった朝日を見にいこうと思っていた、フジのことがいまでも好きか正直よくわからないが、あなたのことが好きだった頃のわたしに会いたかったのだと記されていた。藤代は、弥生の寝室でその手紙を読んで、長い夢からようやく目覚めた気がした。ハルのまっすぐな気持ちが、藤代と弥生の間で喪失した感情を浮かび上がらせていた。鉄道の終点からタクシーに乗り、さらにスーツケースを引いて海に向かって歩いていくと、濃紺の海、インド洋とアラビア海ベンガル湾の3つの海流が交錯する聖地が目の前に広がる。水平線から朝日が現れ、その光に照らされた群衆の中に、藤代は弥生を見つけ、弥生のもとへ走るのだった。

 

(ここまで)

大学時代の恋人で、後に病気で亡くなる女性からの手紙、そして結婚を決めた恋人とのすれ違いを通じて、人に恋し、愛するとは?という自らの問題に否応なしに向き合うことになった青年の姿を描いた小説。

切なくも心に響く作品で、自分自身の来し方を改めて振り返らさせられました。実際には、誰もが、ここまで純粋に誰かを想ったり、愛することに正面から向き合う、向き合えるわけではないのだろうと思います。一時期は向き合ったとしても、それは永続するものではなく、作品中の弥生の言葉を借りれば、愛はすぐ情に変わってしまう。だからこそ、今の自分にはない、あるいは失われてしまった感情が呼び起こされる本作に、惹きつけられるのだと感じました。最後、藤代が向かったハルとの思い出の地に、弥生がいるというエンディングは、うまく行きすぎの感があって、ちょっともったいない印象が残りましたが、魅力的な作品でした。