鷺の停車場

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砥上裕將「線は、僕を描く」

砥上裕將さんの小説「線は、僕を描く」を読みました。

本作を原作にした映画をこの間観に行ってけっこう良かったので、原作も読んでみることにしました。

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本作は、第59回メフィスト賞を受賞した「黒白の花蕾」を改題して2019年に単行本として刊行された作品。2021年10月に文庫本化されています。

文庫本の背表紙には、次のような紹介文が掲載されています。 

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墨と水。そして筆だけで森羅万象を描き出そうという試み、水墨画。深い喪失の中にあった大学生の青山霜介は、巨匠・篠田湖山と出会い、水墨画の道を歩み始める。湖山の孫娘・千瑛ら同門の先輩をはじめ、素晴らしい絵師との触れ合いを通し、やがて霜介は命の本質へと迫っていく。第59回メフィスト賞受賞作。
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巻頭に紹介されている登場人物は、

  • 青山 霜介(あおやま そうすけ):主人公。大学生。

  • 篠田 湖山(しのだ こざん):水墨画家。日本を代表する芸術家。

  • 篠田 千瑛(しのだ ちあき):水墨画家。湖山の孫。花卉(かき)画を得意とする。

  • 西濱 湖峰(にしは まこほう):水墨画家。湖山門下の二番手。風景画を得意とする。

  • 斉藤 湖栖(さいとう こせい):水墨画家。湖山賞最年少受賞者。完璧な技術を有する。

  • 藤堂 翠山(とうどう すいざん):水墨画家。湖山も一目置く絵師。

  • 古前(こまえ):大学生。霜介の自称・親友。

  • 川岸(かわぎし):大学生。霜介と同じゼミ。しっかり者。

 

本編は、4章から構成されています。おおまかなあらすじを記すと、次のような感じです。

 

第一章

法学部の学生の青山霜介は、古前に頼まれて参加した水墨画の展覧会を設営するバイトで、飄々とした老人と出会う。霜介は、その老人が誰だか分からないままに引っ張られて会場の水墨画を案内され、その感想を求められる。その老人は、水墨画の巨匠・篠田湖山で、霜介のコメントの鋭さに、凄い、慧眼だね、と感心した湖山は、霜介を自分の内弟子とすることを決める。千瑛はそれに激しく反発し、来年の湖山賞で霜介が自分に勝てたら、自分は門派を去ると宣言するが、湖山は、霜介には素質があると言い切る。
17歳の時に両親を失い、自分の未来を見失った霜介は、ほとんど名前を書くだけで進学できる、通っていた私立大学の付属高校からエスカレーター式に進んで、独り暮らしをしていた。
弟子の西濱からの連絡で湖山のアトリエを訪れた霜介に、湖山は、自ら筆を取って水墨画を目の前で描いてみせ、霜介に筆を持たせて、それを手本に何枚も描かせる。霜介は描くことに思いのほか楽しさを感じる。
翌週の週末、2回目の練習に訪れた霜介に、湖山は弟子の斉藤湖栖を紹介した後、墨をすり方を教える。湖山は、心や気分が墨に反映するんだと、霜介がすった墨で水墨画を描いてみせ、霜介はすり方による違いを実感する。湖山は、力を抜くことこそ技術、まじめなのは悪くないが自然じゃない、水墨を描くということは自然との繋がりといっしょになって絵を描くことだと語る。
その帰り、敷地内の教室で、霜介は千瑛に鉢合わせする。自分が描いた絵に千瑛は、致命的とは言わないまでも細かいミスがいくつもある、何かが足りない、と言うが、霜介は、画面が華やかすぎる、その情熱が自然な心の変化や情感を消し去っていると感じる。そこにやってきた斉藤は、自ら同じレイアウトの絵を描いてみせる。霜介はその筆使いに無駄がないと感じ、千瑛にはない技術の精度の高さを感じる。斉藤の指摘に委縮する千瑛に、この2人に強いきずながあることを感じる。
アトリエを出て、疲れを感じた霜介は、川岸がバイトする喫茶店に入り、そこにやってきた古前は千瑛との合コンをセットするよう頼み、川岸のアイデアで、学園祭に千瑛の作品を展示したいと誘うことになる。
翌週の練習で、湖山は、水墨画の基本である春蘭の絵を描いてみせ、霜介にそれを描かせる。霜介は、湖山の手本を観察しながら、筆を走らせるが、思うようにいかない。集中力を取り戻し始めた霜介は、湖山が絵を描いた時の記憶を再現して、その動きを観察する。それを繰り返すうちに、水墨画の技術の奥深さを実感する。その絵を見た湖山は、君は善い目と心を持っている、それは何物にも代えがたい財産だとほめる。その帰り、千瑛が運転する車で送ってもらい、学園祭の展示の連絡のために、千瑛と連絡先を交換した霜介は、千瑛との距離感をやっときちんと持てたような気がする。

第二章

学園祭の展示の打ち合わせのために、霜介が通う大学を訪れることになったた千瑛は、若い人に水墨画を知ってもらう機会を逃したくないと、自らの発案で揮毫会を行う。揮毫会の後、食堂で行われた懇親会で、千瑛は、川岸からの質問に、水墨画では、線の性質が絵の良否を決めることが多い、線を支えるのは絵師の肉体、他の絵画よりもアスリート的要素が必要、そして、線の性質は、多くの場合生まれ持ったもの、と語る。それらの言葉に興味を感じた川岸は、千瑛に水墨画を教えてほしいとお願いし、千瑛もそれを受け入れる。
その帰り、霜介の部屋に立ち寄った千瑛は、霜介がすった墨でこれまでにできなかったようなみずみずしく高度な表現ができた、私は描いていくための準備を見逃していた、最初に墨のすり方を教えた湖山は、私たちが考えもしなかった方法で霜介を鍛えようとしていると語る。
次の練習で、湖山は、お手本となる絵を描きながら、最初はとにかくやってみることだ、才能やセンスは絵を楽しんでいるかどうかに比べればどうということもない、心がどれくらい清らかで伸びやかで生き生きと描かれているかということが水墨画の最大の評価で、形や技術はそれに比べれば枝葉にすぎない、と語る。霜介は、斉藤と西濱でどちらが凄い技術を持っているか尋ねると、湖山は、西濱は技術では斉藤に及ばない、しかし、水墨では西濱が遥かに上を行っている、斉藤本人が一番分かっていると語る。
練習が終わると、西濱に公募展の作品を他の教室に返却しに行くのを手伝ってほしいと車で藤堂翠山の家に連れていかれる。20代半ばくらいの女性が出迎えると、彼女に見惚れる西濱は顔がデレデレになり、霜介は分かりやすい人だと思いながら、自己紹介する。その女性、翠山の手伝いをしている孫の藤堂茜は、西濱と霜介を翠山のところに案内する。霜介の立ち振る舞いや会話に何かを感じた翠山は、霜介を仕事場に案内し、目の前で春蘭を描いてみせ、それに画賛と落款を入れて、霜介に贈る。西濱はそれに驚き、帰りの車で、霜介に解説する。
湖山のアトリエに戻ると、湖山、千瑛、斉藤の3人とも教室にいた。湖山と斉藤が見る前で一心不乱に牡丹の絵を描く千瑛だが、湖山の目は冷たく、完成した絵に首を横に振る。良い絵だったと思いますが、と声をかけた斉藤に湖山は、今のがいい絵だったと思うのかね、と厳しい声を発し、斉藤にも絵を描かせる。完成度の高い絵ができ上がるが、湖山は相変わらず冷めた表情で、これにも首を振る。そこに入ってきた西濱に、湖山は絵を描かせる。その絵は、千瑛や斉藤の絵とは本質的に異なるものだった。美とは異なるその生命感に、霜介は感動に手が震える。それらの絵を並べて見て、霜介は湖山が何が気に入らないのかを理解する。湖山は、水墨画は森羅万象を描く絵画だ、だが、現象は外側にしかないものなのか?心の内側に宇宙はないのか?と2人に問いかける。霜介は、心の内側を解き放つために、湖山は自分をここに読んだのだと悟る。

第三章

夏休みに入った霜介は、マンションの自室の壁にお手本を貼りまくり、携帯電話に全く触れずに練習を続ける日々を送っていたが、そこに突然千瑛がやってくる。川岸の求めで行うことになった水墨画サークルの講習会のためだった。古前が大学に申請して確保した部室で、第1回の講習が始まり、千瑛は笹竹の絵の見本を描き、川岸、古前と霜介にそれを描かせる。
練習が終わった後、私は青山くんのことを何も知らない、と口にする千瑛に、霜介は、僕の絵を見てくれませんか、と自宅に招き、春蘭の絵を描く。自宅に籠って水墨を描いている間、霜介の心の内側にあったのは、交通事故で亡くなった両親のことで、霜介は運命に対する態度を決めかねていた。描き終えた絵を見た千瑛は、憂いを含んだ透明な表情で、そうしてこんなに美しいものが創れるの?と尋ねる。霜介は、美を求めて描いたわけではないことを話す。千瑛は、翠山が霜介に贈った絵の画賛に「其の馨しきこと蘭のごとし」と書いてあること、それは、霜介がこの蘭のような人物だという意味だと話す。あなたには私にはないものがある、語らなくても描くものを通して私はあなたを理解できる、あなたはもう私たちの一員、との千瑛の言葉に、霜介は縋りついて泣き出してしまいたい気持ちを堪える。
その後しばらく経って、たまたま外出して際に出会った古前は、霜介を川岸がバイトする喫茶店に連れていき、霜介と千瑛の関係を執拗に追及する。川岸は、千瑛が知らない美男子とデートしていたと話し、2人は、その現場である植物園に霜介を連れていく。
仲睦まじい2人の雰囲気に、1人で植物園を見て回ることにした霜介は、千瑛がここに来ていたのなら、それはデートではなく間違いなく取材だと考える。そこに、花を見にきた千瑛と斉藤が姿を現し、霜介は2人と一緒に植物園を回る。蔓薔薇の前で足を止めた斉藤は、最高の技術とは何か考えたことがあるか、と霜介に質問する。まったく考えたこともない、と霜介が答えると斉藤は、正直なところ私もはっきりとは分からないが、湖山と自分で意見が一致しているのは、水墨画の筆法の本質は描くことだということ、水墨画には「塗る」という動作はない、湖山は水墨画の最も高度な技法は「減筆」に隠されていると言う、と話した後、私は湖山会を去って、少しの間、一人で水墨を眺めてみようと思っている、先輩として、私が最高だと思う技術を見せたいと、その後再会した川岸、古前も一緒に、湖山邸に連れていく。
湖山邸に着くと、斉藤は霜介を自分の練習部屋に連れていき、描くために墨をすり始めながら、千瑛は技術ということであればもう自分が教えることは何もない、あとはどう磨くかという問題だけだ、彼女がしっかり成長したことがここを去る理由の1つでもある、少しの間、湖山会を離れていろんなものを見て勉強したい、と話す。そして、斉藤が蔓薔薇を描くのを見る霜介は、そこに、生きようと強く思う気持ちを感じる。
翌週末、久しぶりに湖山の指導を受ける霜介は、よくこの短期間にこれほどまで蘭を極めたね、正直驚いた、と言葉をかけられる。湖山は、竹と梅の絵を描いた後、現物を見に行こう、と中庭に連れていき、水墨画には用具の限界ゆえに描けないものもたくさんあると語り、霜介に菊を手渡す。湖山は霜介に、この菊に教えを請い、描いてみなさい、これは初心者の卒業画題であり、花卉画の根幹をなす技法が収められていると告げ、いいかい、絵は絵空事だよ、と言う。

第四章

後期に入って、学園祭の準備も始まり、霜介は、学園祭の展示のための下準備に奔走しながらも、水墨画の制作に集中する。菊を描く手掛かりを探すが、どう描くべきかまるで思い浮かばない霜介。そうしているうちに、学園祭がやってくる。西濱の協力も得て、水墨画サークルの展覧会場の設営を終えた霜介は、西濱と作品を見て回り、千瑛の絵に彼女の進歩を感じる。
学園祭が始まり、千瑛と湖山がやってくる。千瑛は霜介の絵を見て、とてもいい絵だと思うが、私は青山君が自分で見いだした美を見てみたいと感想を述べ、霜介ももっともだと思う。そこに、湖山とは旧知の仲の大学の理事長がやってきて、湖山に揮毫を依頼し、急きょ湖山の揮毫会が開かれることになる。湖山が絵を描く姿を見て、霜介は、生きているその瞬間を描くことこそが、水墨画の本質なのだと感じる。
学園祭が終わり、1月が提出期限の湖山賞のための制作に取り組むが、制作は難航する。クリスマスを目前に控えたある日、煮詰まった霜介が外に出ると、そこに湖山が倒れたと電話が入る。病院に見舞いに行った霜介に湖山は、形ではなく命を見なさい、花に教えを請い、そこに美の祖型を見なさい、と言い、君が優れた水墨画家になるかならないかなんてどうでもいい、君が生きる意味を見いだして、この世界にある本当にすばらしいものに気づいてくれればそれだけでいい、と心の内を語る。
家まで送るという千瑛に霜介は、寄ってほしい場所があると、久しぶりに実家を訪れる。千瑛を招き入れた霜介は、本当はここから始めなければいけなかったんだと語り、両親の写真の隣に、花瓶に入れた買ってきた菊を置き、菊を眺める。
マンションに戻った霜介は、制作を始める。目の前に菊を置き、湖山の言葉に従い、花に思いを傾ける。そして、その時がやってくる。心が大きく動き、自然に手が動いて、花の命を宿した絵を描く。霜介は湖山の言葉を理解する。
湖山賞の表彰式、牡丹の絵を描いた千瑛が大賞を受賞し、賞状を受け取った千瑛は涙を流す。西濱に表彰式の手伝いに呼ばれて会場の隅に立っていた霜介は、表彰式がひと段落した後、自分の名前が呼ばれて驚く。事態が飲み込めないまま壇上に上がると、霜介に、審査員特別賞「翠山賞」が授与される。表彰式の後、展覧会の会場に入った霜介に、翠山は、ああいう菊は才能や技術だけでは描けない、私にも感じるところがあったと言い、千瑛は、水墨の本質により近づけたのはあなたのほう、と語る。それに対し、霜介は、この絵を描きながら、自分に足りなかったものを感じた、僕は自分の心を描けたかもしれないが、自分の生き方を描いたわけじゃない、千瑛の技術は千瑛の美しい生き方そのものだ、僕は千瑛の絵に動かされた、と言うと、千瑛は涙を浮かべてうなずく。霜介は、自分の傍にいる誰かが幸福であることや、たくさんの笑顔の中にいられることに、幸福を感じる。

(ここまで)

 

映画では、どちらかといえば、水墨画の奥深さよりも、霜介が、目を背けていた心の傷と向き合い、前に進んでいく自分探しと再生という要素にウェイトが置かれていた印象ですが、本作を読むと、それぞれのやり方で水墨画の本質に迫ろうと切磋琢磨する霜介、千瑛、斉藤の求道者のような姿が強烈に印象に残りました。

作者の砥上裕將さんは実際に水墨画家だそうですが、その世界に身を置いているからこそ、見える/分かる/書ける部分も少なからずあっただろうと思います。さらには、作者が(現実には困難かもしれない)水墨画水墨画界について抱く理想が込められた部分もあったのかもしれません。実際には経験のない作家が水墨画家などの関係者に取材して書く小説で、ここまで水墨画の奥深さを表現することは不可能に近いのではないでしょうか。