鷺の停車場

映画、本、グルメ、クラシック音楽、日常のできごとなどを気ままに書いています

一条岬「今夜、世界からこの恋が消えても」

一条岬さんの小説「今夜、世界からこの恋が消えても」を読みました。

本作を原作にした映画を昨夏に観ていました。なかなか良い映画だったので、原作も読んでみることにしました。

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本作は、第26回電撃小説大賞で「メディアワークス文庫賞」を受賞した「心は君を描くから」に加筆・修正して、2020年2月に文庫本として刊行された作品。

文庫本の背表紙には、次のような紹介文が掲載されています。 

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 僕の人生は無色透明だった。日野真織と出会うまでは―—。
 クラスメイトに流されるまま、彼女に仕掛けた嘘の告白。しかし彼女は“お互い、本気で好きにならないこと”を条件に告白を受け入れるという。
 そうして始まった偽りの恋。やがてそれが偽りとは言えなくなったころ―—僕は知る。「病気なんだ私。前向性健忘って言って、夜眠ると忘れるの。一日にあったこと、全部」
 日ごと記憶を失う彼女と、一日限りの恋を積み重ねていく日々。しかし、それは突然終わりを告げ……。

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主な登場人物は、

  • 神谷 透:小さい頃に母を亡くした高校生。父親と二人暮らし。

  • 日野 真織:透とは違うクラスの女子高生。交通事故で眠りにつくと記憶を失ってしまう「前向性健忘」を患っている。

  • 綿矢 泉:真織の友人で、真織が「前向性健忘」であることを知る数少ない人物。父親は別居しており、本の装丁などを手掛けるデザイナーの母親との二人暮らし。

  • 下川くん:嫌がらせの標的になり、結果的に、透が真織に告白するきっかけを作った透のクラスメイト。親の都合もあり、中国の学校に転校していく。

  • 神谷 早苗:透の姉。父親とのわだかまりを抱え、家を出ているが、そんな家に残してしまった透を気に掛けている。

  • 西川 景子:透が好きな作家。父には黙っているが、実は透の姉・早苗のペンネーム。

  • 透の父:近くの自動車工場のラインマンとして働いている。小説家になることを夢見ているが、受賞できずに傷付くことを恐れて、賞に応募できないでいる。

 

本編は、6章から構成され、それぞれの章は、最終章を除いて、数字で区切られた節に分かれています。おおまかなあらすじを記すと、次のような感じです。

 

知らない彼の、知らない彼女

神谷透は、自分の前の席の下川くんが嫌がらせのターゲットになっているのを止めさせようと、主犯格の生徒が出した条件を受け入れ、一組の日野真織に偽りの告白をすると、日野はそれを受け入れる。それが透の日野との出会いだった。

翌日、透は日野の友人の綿谷から話しかけられ、ノリとか遊びとかで付き合うんだったらやめるよう求められる。放課後、日野と会った透は、告白の真相を日野に打ち明けるが、二人は疑似恋人として付き合い始めることになる。

取り決めを交わした後、二人は色々な話をする。日野は透のことを色々と尋ね、スマホにメモし、二人の写真を撮る。帰宅後、透は彼女ができたことを一緒に暮らす父にも報告する。

翌日の放課後、綿矢と一緒にやってきた日野と話す透。話の流れで、親睦を深めるために透の家に来ることになる。

綿矢と一緒に透の家にやってきた日野は、スマホでメモを取り、透の部屋を写真に撮ったりして、帰っていく。

その翌日、放課後に透は日野とともに綿矢の家に行き、話をする。いつも朗らかに笑っている日野にそれを指摘した透は、日野の「人間って笑えない時には、本当どうやっても笑えないから」という発言が気にかかる。

日野と恋人になって一週間以上が過ぎ、透は、気付くと日野のことばかり考えるようになっていた。日野の発言のことが気になる透は、笑顔の裏に何を隠しているのか知りたい、できるなら彼女の力になりたいと思う。放課後に会った2人は、土曜日の午後に公園でデートすることにする。

デートの土曜日、透はお弁当を作って公園に行く。日野とお弁当を広げて食べる透は、幸福を感じる。恋を嘘に出来なくなっている自分に気付いた透は、「日野のこと、好きになってもいいかな」と尋ねるが、日野は、「だめだよ」と言い、夜寝ると一日にあったことを全部忘れてしまう前向性健忘であることを打ち明ける。

この章は、透の視点から描かれています。

歩き始めた二人のこと

デートの日の朝、目覚めた真織は、記憶障害であるという事実の重みに押しつぶされそうになりながら、手帳に目を通し、透とのことについて書いたページを読む。放課後まではお互い話しかけない、連絡のやり取りは簡潔にする、本気で好きにならない、という3つの条件で付き合い始めたこと、透のプロフィール、透との日々が綴られた日記などを読み、朝食をとった後、悩んだ末に服装を選び、さらに手帳や日記を読み込んだ上で、約束の場所に向かう。透と話しているうちに、ごく自然に心を許している自分に不思議な気分になる。しかし、「日野のことを、好きになってもいいかな」という透の言葉に、泣きそうな心地になる。

透はそれから、前向性健忘という症状について日野の説明を聞く。変なことに付き合わせてごめん、と謝る日野に透は、疑似彼氏でもいいから一緒にいられればと、記憶障害について自分に話したこと、自分が日野を好きになっていることは、日記に書かないよう提案し、日野もそれを受け入れる。

翌日の日曜日、透は転校していく下川くんと地元の駅で会い、最後の話をする。

月曜日、二時間目の休み時間に、綿矢から、日野の様子がちょっとおかしい、やたらと口数が多いのは辛いこととか悲しいことがあったからではないかと聞かされる。放課後に日野と会って話した透は、日野が約束を果たしてくれたのだと感じる。自分の恋心を告げず、日野の病気に気付かないフリをすることを決め、日野が綴る日記を楽しい思い出に一杯にしたいと思う透は、日野がやってみたいことを1つずつやっていくことにする。

まず、自転車の二人乗りをした透。翌日の放課後も二人乗りをし、さらにその翌日も二人乗りをすることになる。

日野、綿矢と3人で水族館に行くことになっていた土曜日、集合場所のターミナル駅に30分以上早く着いた透が、駅に直結する商業タワーにある書店に行くと、「西川景子 芥河賞候補作 発売記念サイン会」と題打ったイベントが行われていた。ぞわりと体が震えた透は、その会場に向かう。サインをする西川景子、自分の姉を見て喉がカラカラに乾く透。透を見つけた姉は傍にいたスタッフの女性に耳打ちし、そのスタッフは透に、姉が少し話したいみたいだから、待っててほしいと伝言を伝える。透は、一度待ち合わせ場所に向かって、綿矢に事情を話し、日野が本気で好きで、喜ぶことならどんなことでもしたい、と綿矢に打ち明け、病気のことを知っていること、日野がそのことを知らないことも話し、作ってきた弁当を渡して別れる。

その日の朝、真織は最近の日記を読み、少しばかり乙女な内容に恥ずかしくなる。今日の自分がその当事者ではないことに、寂しさとも憧れとも形容しがたい感情を抱く真織だったが、自分を入れ替え、待ち合わせ場所に向かう。しかし、待ち合わせ場所で待っていたのは綿矢だけだった。事情を聞いた真織は、綿矢と一緒に先に水族館に向かう。二人で楽しんだ後、遅れて駆け付けた透と一緒に楽しくおしゃべりしながら帰る。

スタッフの女性に指定された、商業タワーの最上階にある喫茶店で姉を待つ透。色んな感情や気持ちが相まって落ち着かないが、小説を読んでいくうちに集中して読み進めるようになる。気が付くと、目の前に姉が座っていた。母を亡くし、家のことは全てやるようになった当時中学1年生だった姉の唯一の楽しみは、小説を読むことで、中学3年生のときには地方の文学賞に入選し、高校卒業後も働きながら小説を書き続け、父が未だに挑戦している文芸界新人賞で最終選考まで残り、担当の編集者も付くようになるが、父にはそれを決して言わなかった。家族には迷惑をかけられないと、小説家の道を諦めようとする姉に、透はその背中を押し、透の高校進学が決まったある日、姉は家を出ていったのだった。その半年後、姉の作品は文芸界新人賞に選ばれ、1年半後には、別の作品で芥河賞候補になっていた。1年半ぶりに姉と会った透は、近況を話し合い、別れた後、日野のもとに向かう。

付き合い始めて3週間が過ぎ、期末テストが迫るある日、透と日野は放課後の図書室にいた。日野がノートに描く絵がうまいのに驚いた透は、記憶障害について調べ、絵を描くといった「手続き記憶」は、消えずに残るのではないかと考え、日野の障害を知らずに知識をひけらかしているフリをして、日野に絵を描くことを勧める。期末テストが終わって、日野、綿矢と一緒に遊園地に行った透は、夏休みに3人で色んなところに行こう、と言葉をかけると、日野は、そうだね、と淡く儚く微笑む。

この章は、1と7は真織の視点から、残りの部分は透の視点から描かれています。

この夏はいつも一度

夏休み、透と図書館で過ごす日々を送る真織は、透の言葉で、今の状態でも絵が上手くなる可能性はあると、クロッキー帳に向かうようになっていた。知らないはずの透を見て心が疼くようになっていた。

8月12日、芥河賞と直樹賞の上半期の受賞作の発表日、図書館で日野と会った透は、話の流れで、日野の部屋で綿矢とともに発表を見届けることになる。

日野と綿矢の算段で、日野の親には見つからないようこっそりと日野の部屋に入った透は、日野と綿矢がいない隙に、日野が記憶を失くした朝の自分のために手帳を見るよう勧める自筆の紙を目にして、日野の日常の一端を覗き見たような気がして、心臓が高鳴る。夜の7時過ぎ、芥河賞が発表され、透の姉・西川景子の作品が受賞する。綿矢を送って9時を回ったころに帰宅した透は、どんよりした顔をした父から、西川景子は早苗ではないのかと言われる。

透は知っていたのか、小説家になるために俺たちから逃げていったのかと非難する父に、透は、姉は向かっていったんだ、お祝いしてあげようと話し、妻に先立たれ、小説にしがみついている自分に酔っている、と厳しい言葉を投げ、もう逃げるのはやめようと、自分に向き合うことを促す。そこに姉から電話が入り、父は受賞を祝福し、父と姉の間の確執が解ける。

8月31日、透と約束した花火大会に向かう真織。透と会って少しドキドキするが、思い切って手を繋ぎ、透の父と姉に挨拶した後、お祭りを透と楽しむ。今のこの感情も記憶と同じように消え去ってしまうのか、と思いを巡らせる真織の口から、忘れたくない、と言葉がこぼれ、涙が止まらなくなる。透の反応に、記憶障害を知っていてあえて気付かないフリをしているのではないかと思った真織は、これからも彼の傍にい続けることができますように、と心の中で強く願う。

この章では、1と5が真織の視点から、2~4が透の視点から描かれています。

空白の白

泉は、神谷と真織が当初の自分の想像を超えて長く付き合い、神谷が真織を支えた上で変えてきたことに、自分や家族以上に真織のことを支えることができるのではないかと思う。そして日々は過ぎ、3人は高校を卒業し、神谷は隣町の市役所の職員になることが決まり、泉は県内の大学への進学が決まり、絵が上達した真織は絵画教室に通うなどして快復を待つことになっていた。その春休み、3人で遊びに行き真織を見送った後、神谷は突然、心臓があまり良くないかもしれない、と泉に話し出す。

予備校に行く前にノートパソコンを開き、高校時代の日記を読み返す真織。3か月前、約3年間の記憶障害から回復した真織は、大学に行こうと思い立ち、予備校に通い始めていた。そうやって日々を過ごし、秋も深まった頃、真織は部屋の本棚の後ろにあったクロッキー帳を見つける。そこには、見知らぬ男の子の絵が描かれていた。それを見て心臓がドクドクする真織は、この人は誰か、午後に会う泉に尋ねてみようと思う。

泉に話し始めた透は、自分が前日に突然失神したこと、母親が心臓の病気で突然亡くなったことなどを話し、もし自分が死んだら、日野の日記から自分のことを消去してほしい、そうすれば日野の中でなかったことになる、と頼む。その翌日の夜、透は心臓突然死で亡くなる。その翌日、泉は真織を訪ね、意を決して透の死を伝えると、真織は悲痛に顔を歪ませ涙を流す。泉は透の頼みを実行すべきかどうか迷うが、透の姉にそれを相談し、病に臥せるように横になっている真織を見て、実行を決意する。日記や手帳のコピーを姉に渡すと、姉は透に関する記述を消した上で、辻褄が合うように変更を加え、データ化する。

それから数日のうちに透の葬式が終わり、泉は真織の両親と透の姉とで今後のことを話し合った上で、憔悴し衰弱し続ける真織の日記や手帳を回収して、ノートパソコンにデータを移し、スマホを入れ替えたのだった。それから1年近い歳月を経て記憶障害から快復した真織から、これって誰なのかな?とクロッキー帳に描かれた透について尋ねられた泉は、何が真織にとっていいのか分からず、ごまかそうとするが、大切なものを隠す場所にあったと話す真織に、泉は涙声になって真実を話し出す。

この章は、2のみが真織の視点から、残りの部分は綿矢の視点から描かれています。

知らない彼女の、知らない彼

泉から透のことを聞かされた真織は、混乱に襲われ、大切だった人のことを全て忘れてしまっていた自分に愕然とする。取ってくるものがあると言って席を外した泉は、真織が書いていた本当の日記や手帳などを真織に渡す。家に帰った真織は、意を決して日記に目を通す。

翌日から、真織は色々な人から透と自分のことを聞いて回る。そして最後に、透の姉に会う。姉は、透が守りたかったのは貴女の未来、透のことは忘れて新しい生活を始めてほしいと話すが、真織は、私は大切な思い出を失っている、彼のことを徐々に思い出し、大切なものを取り戻してみたいと話す。真織は、透のことを思い出そうと試行錯誤しながら勉強を続け、第二志望ながら県内の大学への入学を決める。春の午後、何度か行ったことのある桜並木が名所となっている公園で泉と会った真織に、透の言葉が記憶の池から立ち上がる。真織は泉に、大切なものは全部自分の中にあるから、全部思い出してみせる、と泣きながら話す。

この章は、真織の視点から描かれています。

心は君を描くから

24歳となった泉は、大学4年生となった真織と桜並木が名所となっている公園で会う。真織は、透を思い出そうとする一方で、自分の人生を楽しんできちんと送っていた。泉と2人で桜並木を歩く真織から渡されたクロッキー帳には、見たことのない透の絵が描かれていた。何かを思い出そうとしている真織は、返してもらったクロッキー帳に鉛筆で素早く絵を描いていく。それはかつて3人で花見をした時の透だった。真織は、また透くんのことを思い出せたよ、と言い、涙を流しながら、思い出すことで一緒に行き続けることができる、私は今でも彼が好きなんだ、だけど大丈夫、いつかまた、ちゃんと愛する人を作るから。でも、それまでは、もう少しだけ…と話す。

この章は、社会人となった泉の視点から描かれています。

(ここまで)

 

上で紹介したように、最初は透の視点からの描写で始まる物語が、やがて真織の視点からの描写が挿入され、さらに泉の視点からの描写に中心が移っていく構成になっています。時系列も、「知らない彼の、知らない彼女」の最後の「8」と、次の章の「歩き始めた二人のこと」の「1」は、同一の時点を、透と真織のそれぞれの視点から描く形になっており、「空白の白」の「2」は、透が亡くなった時期を描いた前後の節とは異なり、その後の「4」の最後に描かれる、真織が高校卒業後に記憶障害から快復した後の時点を描いており、要所に時系列順とは異なる部分が挿入される形となっています。

映画を観たときにも思いましたが、実際の「前向性健忘」は、本作で描かれる、眠るとその前に起きていた間の記憶が全て失われてしまうという真織の記憶障害、裏から見れた、眠るまではそれまで起きていた間の記憶は保たれる、という単純なものではないようなので、どこまで現実的に起こり得る設定なのか、という点では若干の疑問はありますが、タイムリープなど明らかに非現実的な設定ではなく、現実に起こり得そうな設定の中で、予想もしない結末に持っていく展開は見事で、心に沁みるいい物語でした。